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東京高等裁判所 昭和61年(う)1281号 判決

主文

本件控訴を棄却する

当審における未決勾留日数中五五〇日を原判決の刑に算入する。

理由

本件控訴の趣意は、弁護人野田房嗣及び被告人各作成名義の控訴趣意書ならびに同弁護人作成名義の控訴趣意補充書(第一緒言の部分を除く。)に、これに対する答弁は、検察官友野弘作成名義の答弁書に記載されているとおりであるから、これらを引用する。

法令適用の誤りをいう控訴趣意について

所論は、爆発物取締罰則の定める「治安ヲ妨ケ」との文言はきわめて不明確であり、憲法三一条に違反して無効である、仮にそうでないとしても、右罰則の一条及び三条所定の各目的があるというためには、治安妨害、身体財産への加害という結果発生を確定的に認識し、かつ、右結果発生を意欲していることが必要であると解すべきであるのに、原判決は、「治安ヲ妨ケ」との文言が明確さを欠くものではなく、また、右各目的は、結果発生に対する未必的認識・認容で足りるとし、かつ、意欲も必要でないとして、被告人の原判示第二ないし第四の各所為を右罰則一条あるいは三条に問擬しているのはいずれも法令の解釈、適用を誤ったものであるというのである。

しかしながら、爆発物取締罰則の「治安ヲ妨ケ」との文言が明確さを欠き、したがって憲法三一条に違反するものではないこと、及び、右罰則一条及び三条の各目的があるというためには、結果発生に対する確定的な認識や意欲を要するものではなく、結果発生に対する未必的認識、認容があれば足りるということについては、いずれも原判決摘示の諸判例を含む累次の判例が一貫して認めてきたところであって、判例上すでに確定されているところというべきであり、当裁判所もこれらの判例の見解を正当と考えるものである。したがって、弁護人のその余の主張につき按ずるまでもなく、原判決に所論のような法令適用の誤りが存しないことは明らかであるといわなければならない。所論は採用できず、論旨は理由がない。

事実誤認ないし法令適用の誤りをいう控訴趣意(一)について

所論は、原判示第一の事実について、被告人が放火しようとした平安神宮本殿や実際に点火した祭具庫、西翼舎等の建物と、放火当時人が現在ないし現住していた社務所や守衛詰所等の建物とは、東西各歩廊と同各外廻廊との間、東外廻廊と齊館・社務所との間、齊館と社務所との間で切れていて、それぞれ独立した別個の建物となっているのであって一体性は認められないうえ、被告人には右両建物が接続していることの認識や社務所等への延焼につき認識・認容はなく、また、放火当時社務所や守衛詰所に人が現在ないし現住していたことについての認識もなかったのであるから、いずれにせよ、本件では非現住建造物等放火罪しか成立しないところ、本件起訴時には既に同罪の公訴時効は完成しているから、免訴の判決がなされるべきであるというのである。

しかしながら、平安神宮社殿の配置、構造、とくに東西各内廻廊と東西各歩廊、東西各歩廊と東西各外廻廊、東外廻廊と齊館、社務所との接続の状況、一般参拜客の右社殿における礼拜の模様、本件当時の右社殿の宿直や警備の状況は、原判決が詳細、具体的に説示しているとおりであって、これによれば、東西各歩廊と同各外廻廊との間、東外廻廊と齊館・社務所との間及び齊館と社務所との間は、いずれも構造上両者が一体不可分のものとして密着して接続することが明らかであり、また、東西各内廻廊と同各歩廊との間も物理的には右のように一体不可分とまではいい得ないにせよ、機能的、構造的にみれば、その物理的接続性は優にこれを肯認し得るものというべきであって、被告人が放火した祭具庫、西翼舎、東西両本殿、内拜殿等の建物と宿直員の現在していた社務所、守衛詰所とはかなりの距離があるものの、堅固な造りの東西各内外廻廊や東西各歩廊等が中央の広場を囲むように方形に連なり、廻廊や歩廊づたいに各建物を一周し得る機能、構造となっているうえ、その途中には蒼龍楼その他の楼閣等が存しており、これらの建造物を全体としてみた場合、その接続性は優に肯認することができ、また、右廻廊、歩廊等は、前記のとおり、屋根及び柱、壁の一部に不燃材料が使用されているとはいえ、屋根の下地、透壁及び柱等に多数の木材が使用されているほか、蒼龍楼その他の楼閣等も木造のものであり、このような建物の構造、材質や本件火災時にみられる前記のとおりの焼燬状況などに鑑みれば、風向、風速、湿度その他の気象条件や火災の発見、消火状況等のいかんによっては、社務所や守衛詰所への延焼の可能性も否定し得ない状況にあり、被告人が放火した祭具庫、西翼舎、東西両本殿、内拜殿等の建物部分と人の現住していた社務所、守衛詰所の部分とは、これを一体のものとして、その全体について現住建造物性を肯定することができるものというべきである、との原判決の説示は、正当としてこれを是認することができるといわなければならない(なお、歩廊南端にある防火シャッターや、鉄製扉が延焼予防設備として高度の有効性をもっており、この点からしても平安神宮社殿は歩廊と外廻廊との間で切れていて接続性がないとの弁護人の主張についても、右歩廊及び外廻廊の連子窓の入った透壁はいずれも土壁しっくい仕上げであるうえ、右歩廊の屋根の軒先は廊下両側にある柱よりも先まで張り出しており、しかも、右屋根は外廻廊の屋根の上まで延び、右各屋根の下地や歩廊南端にある梁の一部がいずれも木製であることなどからすれば、前記程度の防火シャッター設備や鉄製扉等では、いまだ延焼防止の役割を完全に果すには不十分なものといわざるを得ず、右防火シャッターの存在の一事をもってして、その間の接続性を否定しうべくもないことも、原判決の説示するとおりといわなければならない。)。

また、被告人が、社務所、守衛詰所に人が現在または現住していること及びこれらの建物と放火地点である祭具庫等とが接続していることについて、十分な認識を有していたことも、被告人の実況見分の際の指示説明を含む捜査段階における供述(その具体的内容は、原判決の説示するとおりであるところ、これらの供述が大筋において十分に信用しうるものであり、これに反する被告人の原審公判廷における供述が到底措信できないものであることも、原判決が適切に説示しているとおりといわなければならない。)によって十分に肯認することができるところというべきである。

以下、弁護人及び被告人の各主張に即して若干の説明を付加する。

弁護人あるいは被告人は、①原判決は、「右廻廊、歩廊等は、前記のとおり、屋根及び柱、壁の一部に不燃材料が使用されているとはいえ、屋根の下地、透壁及び柱等に多数の木材が使用されているほか、蒼龍楼その他の楼閣等も木造のものであり、このような建物の構造、材質や本件火災時にみられる前記のとおりの焼燬状況などに鑑みれば、風向、風速、湿度その他の気象条件や火災の発見、消火状況等のいかんによっては、社務所や守衛詰所への延焼の可能性も否定し得ない。

したがって、以上を総合して考察すると、被告人の放火した祭具庫、西翼舎、東西両本殿、内拜殿等の建物部分と人の現住していた社務所、守衛詰所の部分とは、これを一体のものとして、その全体について現住建造物性を肯定することができるものというべきである。」と判示しているが、右判示は本件犯行当時の具体的な風向、風速、湿度等を捨象して、抽象的に一般論を述べているにすぎない。社務所、齊館、守衛詰所などと被告人が火をつけた祭具庫が単一の建造物の一部であるというためには、構造物、機能的一体性がそこになくてはならないことはいうまでもないが、さらに犯行時の風向きなどの具体的状況からして祭具庫への放火により右社務所等に火が及ぶ具体的現実的可能性、蓋然性がそこになくてはならないと解すべきところ、内廻廊と歩廊、歩廊と外廻廊、東外廻廊と齊館・社務所との間は完全に切れてはいないものの、相互の接触面積がきわめて僅少であり、その部分に多数の木材が使用されているとはいえ、棟木、縦棧部分には細材が用いられているものの、棟木も小さく、また相互にかなりの距離があるゆえ、その多くは丸太のまま用いられ、しかもその少なからぬ部分がコンクリートに埋めこまれているなど延焼がきわめて困難な状況となっていること(現に歩廊に消火栓も設置されていないのであり、このことは歩廊が火災により燃焼する危険がきわめて低いことを雄弁に物語っている。)、上部構造の屋根には木材が用いられてはいないこと、塀や廻廊は開放された空気の流通がきわめてよいところからして、いわゆるフラッシュ・オーバーの現象が生ずるとは考えられないこと、当日の風向き、風速からしても、被告人の放った火が社務所等に及ぶということはありえなかったところであること、多数の重要な文化財を抱えている京都市では、他の都市よりもはるかに消火体制が整備されており、平安神宮の所在する場所の具体的状況に照らすと、同神宮に火災が生じてもその発見と通報が敏速になされる筈であることと相まち、間違いなく火災が右社務所等にいたる相当以前に消火された筈であること、大極殿、迎廊群、齊館等が消防法上別個の建造物としての規制を受けていること、現に、本件犯行による焼燬の結果も内廻廊の延焼はきわめて軽微であり、桧皮葺き板張りの透塀でさえ、輻射熱によりそのわずかの部分が燃焼しているにすぎないことなどを併せ考えると、本件犯行により社務所等に火が及ぶことは、その当時のこれらの具体的状況にかんがみ、そもそもありえないところというべきである、原判決が抽象論のみをもって本件犯行当時の具体的な事情を一顧だにせず、社務所等人の現在する場合に火が及ぶことの具体的蓋然性を吟味することなくして、これらの建造物を含む平安神宮社殿全体が単一の建造物であるとした原判決の判断は法令の解釈、適用を誤ったものである、②内廻廊と歩廊との間の部分についていえば、本件当時大規模な改修工事が行われていて、原判決の指摘する雨樋やしぶき止めが当時実際にあったのかどうかが全く検討されていないことに徴し、原判決のこの部分に関する説示は事実にもとづかない臆測にすぎない、などと主張する。

思うに、複数の建築物が廊下などで結ばれている一連の建造物群があり、そのうちの一部に人が居住し、あるいは現在している場合において、犯人がそのうち人が居住し、あるいは現在しない建造物に放火したときに、その全体が単一の建造物であって、その所為が現住建造物放火罪にあたるのか、それぞれが別個独立の建造物であって、その所為は非現住建造物放火罪にすぎないとみるべきかは、その構造上の接着性の有無・程度、個々の建物の間の機能的関結性の有無・強弱、及び相互の連絡、管理方法などに加えて、副次的にはその火災が人の居住の用に供されている建物部分に延焼する蓋然性や火災により発生した有毒ガスが右部分に波及する蓋然性などをも一つのファクターとして考慮し、これらの諸事情を総合的に考察して決すべきものと思料されるのであるが、この場合における、その火災が人の居住の用に供されている建物に延焼する蓋然性なるものは、所論のように、その放火当時における風向、風速、気温、湿度、さらには右建造物群自体のその時点における消火態勢やその地域における消防署の一般的消火態勢の充実度とその時点における待機出動態勢などの一過的、現在的な具体的諸状況をふまえて、人の居住の用に供されている個所にまで延焼する現実的で切迫した蓋然性、危険性が果してあったかどうかという角度から判定すべきものではなく、かかる犯行時の具体的状況を捨象して一般的、定型的に判断すべきものといわなければならない(所論の如く犯行時における個々の具体的状況をふまえて判定すべきものとすれば、風向や風速などの気象条件の変化によって、同一の建造物群が、日により時刻によって、単一の現住建造物となったり、それぞれが別個独立の建造物であることになったりするという甚だ奇妙で、不合理、非常識な結果を招来することになろう。いわんや、その建造物群のある都市の消火態勢の充実度、右建造物群と消防署との距離関係、犯行時における消防署の待機出動態勢をも加味すべきであるとの所論の論法を押し進めるならば、例えば、その建造物群が消防署に隣接しており、消防署の待機出動態勢も万全のものであって、延焼がひろがる前に直ちに消火活動が開始されることが予想されるかぎり、仮にその建造物群が最も可燃性の高い建材を用いて、きわめて密接に結ばれるという構造になっていたとしても、その建造物群は単一の建造物ではないというきわめて常識に背馳する結論に帰着せざるをえないであろう。)。また、その蓋然性なるものも、現住建造物放火罪が抽象的危険犯であることにかんがみるならば、原判決が説示しているように、延焼等の可能性が否定しえないという程度、いいかえると一般人において延焼の危惧感を禁じえない程度のものであることが必要であり、また、その程度で十分であるといわなければならない。いいかえると、その構造上の接着性、個々の建物の機能的関結性が強い場合においては、一般にそれだけで一体性を肯認するに十分であり、ただ例外的に火勢ないしは火災により発生する有毒ガスが他の居住用に供されている部分に波及することが絶対にないか、あるいはほとんど稀有であると認められるときにはその一体性が阻却される場合があるにすぎないと考えられる。所論指摘の原判決の説示もまさにかかる観点から平安神宮社殿の一体性を吟味しこれを肯定しているのであり、もとよりその見解は当裁判所としても全面的に正当として是認しうるところといわなければならず、所論は、いたずらに独自の見解に立脚して原判決を論難するものにすぎない(なお、大極殿、迎廊群、齊館等が消防法上別個独立の建造物としての規制を受けているとの主張について付言すれば、かかる事情を窺わせる何らの証拠はなく、右主張はいたずらに臆測をたくましうするものといわなければならない。そして、平安神宮社殿に関する所論指摘のその余の事情の如きも、かかる一般的、定型的な社務所への延焼の蓋然性を否定し、あるいは疑いをさしはさましめるに足りるものではないことはいうまでもない)。①の主張は採用できない。

②の主張についても、たしかに原審取調べにかかる関係各証拠によれば、本件放火当時、内拜殿、東翼舎、神饌所、内廻廊あたりを中心として鉄パイプによる足場が組まれ、改修工事が施行されていたことが窺われるけれども、右工事は屋根のふきかえを目的としたものにすぎず、したがって雨樋やしぶき止めをとりはずすなどの措置までとられていたとは到底認められないのであって、②の主張も採用できない。

次に、弁護人あるいは被告人は、①現住建造物であるとの認識があったといいうるためには、現在しあるいは現住している人に危害が及ぶことについての認識、認容がなくてはならないが、本件において被告人にかかる認識、認容がなかったことは明らかであり、この点からしても、被告人に現住建造物であるとの認識があったとの判断が誤っているといわなければならない。②被告人は、本件当時の風向きからして人の現在する社務所、守衛詰所まで絶対に火が及ばないことを確信していた(被告人は、平安神宮の位置、同神宮自体の消火態勢や京都市の充実した消防態勢からしても、直ちに火災が発見され消火されることを予期していたものであって、社務所や宿直詰所はもとより、それよりはるかに手前にある外拜殿にさえ絶対に火が及ばないことを明確に予見していたものである。)ものであり(本件当時北風が吹いていて社務所等に火が及ぶおそれがある状況であったならば、被告人は本件犯行を決して敢行していなかったであろう。)、かかる点を看過して、被告人に現住建造物であるとの認識があったとした原判決の判断には論理の飛躍があるといわなければならない、③社務所、齊館は、本件犯行当時、屋根に飾りがついており、玄関に止め木が置かれ、かつ、標縄、しめかざりもあったことなどからして、明らかに神社の建造物の一部であって、一般の建物とは著しく異なる様相を呈していたのであり、この点からしても、被告人がそこに人は住んでいないと認識していたことは明らかであり、「齊館及び社務所は、その構造や屋根瓦、柱、壁等の色彩などが外拜殿、蒼龍楼、神楽殿、歩廊、廻廊などと一見して異っており、むしろ、一般の建物に類するものであることがそれぞれ認められる………」との原判決の説示は誤っている、そもそも被告人は社務所や齊館については全く関心を有しておらず、したがってその部分を見てもいないのである、④原判決は、「平安神宮では、夜間宿直員が勤務しており、社務所事務室内の螢光灯二本と婚礼受付所前の螢光灯一本は終夜点灯されており、被告人が夜間の下見で歩いた平安神宮南側の冷泉通りから社務所方向を一瞥すれば、前記各電灯が点灯されて、右事務室内が明るくなっているのが明瞭に視認できる状況にあったこと」をもって、被告人に社務所に人が寝泊りしていることの認識があったことの証左としているが、明りがついていることの認識があれば、直ちに、そこに人が寝泊りしていることの認識もあったと推認してよいとの原判決の右説示には、論理の飛躍がある、⑤被告人の捜査段階のこの点に関する自白は、取調官が、思想的変遷によって、一面では罪悪感にさいなまれ、また、他面では己れの思想の変遷を何とかして理解してもらいたいと考えていた被告人の心情、かつ、A女を何とかしてかばいたいと考えていた被告人の心情につけこみ、さらに結局は非現住建造物放火として不起訴処分にされるであろうことをにおわせるなどして、強い誘導、押しつけがなされ、被告人が右のような心情からやむなくこれに迎合したことにより引き出されたものであり、信用性を全く欠くものである(このことは、被告人が裁判官の勾留質問において否認していることからも明らかである。また、昭和五八年七月一八日付実況見分調書によれば、同月一五日に行われた本件現場の実況見分において、被告人が、齊館を指して、そこが神社関係者の居住するところだと思ったと述べたとされているが、被告人がそのようなことを述べる筈はないし、また、右実況見分調書のNo80の写真は、水屋の玄関の戸を指している写真にすぎず、とても接続状況を説明したものとは認められない。)などと主張する。

しかしながら、犯人に現住建造物であることの認識があったといいうるためには、犯人に火が人の現在あるいは現住する部分に及ぶであろうことの認識、認容があることを要するとする筋合いは全くない。いわんや、そこにいる人に危害が及ぶであろうことの認識・認容まで要するものではないことはいうまでもない。現住建造物であるとの認識は、その建物が構造的、機能的に一体性を有しており、その構造や使用されている建材の性質からして、その一部での火災が全体に波及する一般的、定型的な可能性、蓋然性があることに関する生の諸事実と、現にその全部または一部に人が現在し、あるいは現住することについての認識があれば足りるのであって、その建造物が規範的に現住建造物にあたることについての認識や、犯行の際の風向き、風速、湿度などの具体的状況からして、人の現在しあるいは現住する部分に火が及ぶであろうことの予見、認識まで要するものではないことは明らかであり、①及び②の主張は到底容認しえないところの独自の見解を展開するものに他ならず、採用のかぎりではない。

③の主張についていえば、所論指摘の原判決の説示は、齊館、社務所が神社の建造物の一部という様相、外見を全く有していない、一般の民家と全く同様の外見を有しているなどとしているわけではなく、所論指摘のような諸事情からして一般の民家とは明らかに異なった様相のものであること、すなわち、平安神宮の建造物の一部に他ならないことを前提としながら、なお、外拜殿、蒼龍楼、神楽殿などとはその外見の趣きが一見して異なった、いわゆる居住性を備えたものであることを指摘しているものであることは右説示自体からして明らかであり、所論は原判決の右説示を正解せずしてこれを論難する的はずれなものという他はない。③の主張も採用できない。

④の主張についていえば、原判決は、齊館及び社務所の構造、外見が外拜殿、蒼龍楼などとはかなり趣きを異にしたものであることと、被告人が夜間社務所事務室内と婚礼受付所前の螢光燈が点灯されていることを下見の際に容易に現認しえた筈であることと併せて、被告人の捜査段階における、社務所等に人が現在することを認識していた旨の供述の信用性を裏付ける事情として重視、指摘しているのであって、所論のように被告人が事務室に明りがついていたことの認識を有していたことのみから、被告人がその部屋に人の現在することの認識を有していたと推認しているわけではないのであり、所論は原判決の説示を正解せずしていたずらにこれを論難するものにすぎない。そもそも平安神宮のような文化財として貴重な建造物に夜間、防火、防犯のための人員を全くおいていないなどということはおよそ考えられないところといわなければならず、④の主張も採用のかぎりではない。

⑤の主張についていえば、被告人の捜査段階におけるこれらの点についての自白は、本件放火に至った経緯、動機、下見等の準備段階の状況、犯行状況、犯行後の行動等右各供述部分以外の諸点についても、全般にわたって極めて具体的かつ、詳細に述べたものであり、ヴィヴィッドな描写性を備えたものであるうえ、一貫性もあり、客観的事実ともよく符合すること、拜殿と本殿の接続状況、齊館、社務所と廻廊の接続状況、裏門から侵入した時点でのバッグの携帯状況、侵入した裏門の扉に有刺鉄線が張ってなかったことなどについては、明確な記憶がなく推測で述べるものであるとして、明確な記憶にもとづく供述と単なる推測にもとづく供述とを峻別して供述していること、平安神宮の図面を案内板、パンフレットなどで確認したかどうか、神苑の入場料、内拜殿の塀の高さ、夜の下見が一回目の下見であったか、二回目の下見であったか、ポリタンク、バッグを購入した店、犯行前に見廻りをしたかどうか、犯行後のポリタンクの処分状況などさまざまな点につき己れの記憶にあいまいであると述べており、この点からしても、己れの記憶に忠実にしたがった供述に他ならないと推認されること、平安神宮の祭神が桓武天皇であることを知った経緯、下見を二回行なったこと、二回目の下見の理由、ガソリンの運搬方法、犯行前の時間待ちのための行動の具体的状況、犯行後の行動の具体的状況、二月一〇日に声明文を送りつけたことの意味など、あらかじめ検察官において予備知識を有し被告人を誘導したとは到底考えられない多くの事項についての供述が含まれていることなどに徴し、所論のような誘導や押しつけが取調官によってなされていないことは明らかであり、疑いをさしはさむ余地の全くないところといわなければならない(また、所論は、被告人の思想的変遷に取調官がつけ込んだかのようにいうけれども、そもそも被告人の内面の心情の右のような変化は、逆に、被告人の取調官の誘導をまつまでもない自発的にして己れの記憶に忠実な自白をもたらすべき筋合いのものであることは、原判決が説示しているとおりであるといわなければならないし、また、結局は非現住建造物放火として不起訴処分にされるであろうことが取調官によってほのめかされ、その結果として、まさに逆に本件が現住建造物放火罪として処罰されるにいたる有力な証拠となるべきこれらの点についての自白が引き出されたなどということは、その事柄の性質からしてもありえないところといわなければならない。取調官の立場からしても、本件よりもさらに兇悪な、爆弾による無差別テロを次々と反覆累行した被告人について、本件の真相に反してまで本件を何が何でも現住建造物放火罪に仕立てあげなくてはならないというような状況にはそもそもなかったといわなければならない。)。そして被告人が勾留質問において否認したという事情の如きは、前述のような諸事情にかんがみるならば、その時点ですでに己れの罪責をできるかぎり軽減したいという心理が被告人に芽生えていたことを窺わせるにすぎないものであって、被告人の捜査段階における、これらの点についての自白の信用性をいささかも減殺するものではないといわなければならない。また、同年七月一五日の本件現場の実況見分において、被告人が前述のように述べたことも、原審証人渡辺修の証言などからして明らかであるし、所論指摘の写真が水屋部分の接続状況とそれについての己れの認識を明らかにするための被告人の指示説明の模様を撮影したものに他ならないことも、右実況見分調書の記載からして明らかであるといわなければならない。⑤の主張はすべて採用できない。

以上要するに、弁護人のその余の主張につき按ずるまでもなく、原判決に所論のような事実の誤認も法令適用の誤りを存しないことは明らかであるといわなければならない。所論は採用できず、論旨は理由がない。

事実誤認をいう控訴趣意について

所論は、原判示第二(以下、「梨木神社爆破事件」という。)、第三の一ないし五(以下、「原判示第三の一の事実を「東急観光爆破事件」、同二の事実を「東大法文一号館事件」、同三の事実を「三井アルミ社長宅爆破事件」、同四を「神社本庁爆破事件」、同五を「東本願寺爆破事件」という。)の各事実について、いずれも被告人に爆発物取締罰則一条所定の目的(ただし、梨木神社爆破事件については、身体加害目的を除く。)はなく、また、東急観光爆破事件、東大法文一号館爆破事件及び神社本庁爆破事件についても、人身への暴行、傷害の故意はなかったのに、これらをすべて肯認した原判決には事実誤認があるというのである。

しかしながら、これらの事件に用いられた各爆弾の構造、各現場の状況、被害状況、関係証拠から認められるところの各爆弾の威力に関する認識(いずれもその詳細は、原判決が具体的に説示するとおりである。)等を総合すれば、被告人に、治安を妨げ、人の財産を害することについては、確定的認識が、人の身体を害することについては(ただし、梨木神社爆破事件を除く。)、少なくとも未必的認識、認容があったこと、負傷者の出た右の三つの事件については、人身への暴行、傷害の故意も有していたことは、いずれも明らかであって、疑いをさしはさむ余地の全くないところといわなければならない。

以下、弁護人の主張に即して、若干の説明を付加する。

弁護人は、①東急観光爆破事件については、被告人が人通りのない時間帯を選び、中村ビルの南側に人通りのないことを確認し、かつ、爆風が事務所内の人間に直接向わない場所に爆弾を設置したこと、東大法文一号館事件については、学生の少ない連休の谷間に、学生の出入りのない時間帯に袋小路となっていて厚い木製扉に遮蔽されて爆風により人が傷つく筈がない場所の爆弾を設置したことや、被告人は本件爆弾の横に新聞紙に包んだ声明文をおいたが、このことは被告人が爆発によっても声明文が無傷のまま残ると考えていたことの証左であること、三井アルミ社長宅爆破事件については、人通りも全くない深夜に門柱近くの門扉の道路側にアルミ圧力鍋を用いた密閉度の低い、したがって爆発力が劣弱な爆弾を設置したこと、神社本庁爆破事件については、鉄製のロッカーなどに遮蔽されて爆風が事務所内に向わないような所にしかもその威力が主にその上下に向くような方向に爆弾を設置したこと、東本願寺爆破事件については、被告人が爆発寸前まで現場にいて人が来ないのを確認したうえ、現場を立去っていることなどに徴し、とくに人の身体を害せんとする目的(負傷者の出た三事件については、人身への暴行、傷害の故意も)がなかったことは明らかであると主張する。

まず、①の主張について按ずるに、東急観光爆破事件においては、そもそも現場周辺が商社、銀行等の事務所、飲食店や堂島地下商店街及びこれに通じる地下出入口等が混在する繁華街であり、日中の人や車の通行の頻繁なところであること、被告人が爆弾を設置した地点と大阪海外旅行センター及び東急観光仕入センターの事務室との間にはコンクリート壁があるものの、右壁の中央南寄りのところに出入口があり、爆発当時その出入口の観音開きの鉄扉二枚は開放されていて、両開きのガラスドアがあり、右出入口から約二メートル入ったところのカウンターの出入口側にB及びCが座り、右カウンターを隔ててDが座っていたほか、同室内には多数の従業員が執務をしていたこと、爆発の衝撃自体やそれにより生じた窓ガラスの破片等により現に原判示の六名が原判示のような傷害を負ったこととか、現場の爆発による原判示のようなすさまじい物的被害の状況と、それにより窺われるところの爆弾の威力など犯行の客観的態様(いずれも原審取調べの関係各証拠により明らかである。)それ自体からして所論指摘のような事情を十分に考慮に入れても、被告人に人身を害せんとする目的(人身への暴行、傷害の故意を含む。)があったことは、被告人の自白の内容やその信用性を按ずるまでもなく、優にこれを肯認することができるところといわなければならない。

東大法文一号館爆破事件についていえば、被告人が爆弾を設置したのは同館三階法学部二六番教室東側階段踊り場北東隅付近であるが、本件爆発当時、右教室ではフランス法の講義が行われ、Eら約二五名の学生が受講していたほか、同館二階法学部二五番教室では約八〇〇名の学生が憲法の講義を受けており、その他の授業及び大学当局による一般事務も平常どおり行われていたこと、現に法学部二六番教室内にいたE(その位置は爆心地からわずか約六メートルであった。)が爆発の衝撃で吹きとばされて原判示のような傷害を負ったこととか、爆発によるすさまじい物的被害の状況と爆弾の構造、威力など(いずれも原審取調べの関係各証拠により明らかである。)その犯行の客観的態様それ自体からして、所論指摘のような事情があるにせよ、被告人に人身を害せんとする目的(人身への暴行、傷害の故意を含む。)があったことは、被告人の自白の内容やその信用性を按ずるまでもなく、これまた明らかであって疑いをさしはさむ余地の全くないところといわなければならない。なお、被告人が声明文一通を爆弾の設置場所に置いたことは所論指摘のとおりであるが、被告人は同じものを他に三通用意し、新聞社に郵送しているのであり、被告人において現場に置いた声明文が無傷で残ることを予期していたとするならば、かかる措置をとる必要は毫もなかったというべく、したがって、右事実が被告人において爆弾の爆発力がきわめて軽微なものと考えていたことの証左とする所論も採用できない。

次に三井アルミ社長宅爆破事件についても、たしかに被告人が爆弾を設置したのは門扉道路側ではあったが、右社長宅の門扉は木製のものであり、そのわずか約2.5メートルのところに玄関があり、また、右爆心地から娘Fが就寝していた洋間の北西隅までもわずか約七メートルにすぎなかったことや爆発による被害状況のすさまじさ(いずれも原審で取調べられた関係各証拠により明らかである。)から窺われる爆弾の威力などその犯行の客観的態様それ自体からして、被告人の自白の内容やその信用性を吟味するまでもなく、また、その余の所論につき按ずるまでもなく、被告人に人身を害することについての少なくとも未必的な認識、認容があったことは明らかであるといわなければならない。

神社本庁爆破事件についても、被告人が爆弾を仕掛けたロビーとその東側の財務室との間にスチール製ロッカーが置かれていたことは所論指摘のとおりであるが、その北側にガラス製ドアとガラス製受付窓口(その下部及び南側もガラス張りの間仕切りとなっていたにすぎない。)があり、これらの上部にもガラス張りの天窓があったにすぎず、右ロッカーがあったからといって、爆発の衝撃による被害が財務室に及ばないような状況ではなかったことは、いずれも原審で取調べられた関係各証拠によって明らかなところといわなければならない。原審取調べの関係各証拠から認められるところの関係者の受傷の状況や物的被害の状況とそれにより推認される爆弾の威力などを併せ考えるとき、これまた、被告人の自白の内容や信用性を按ずるまでもなく、また、爆弾が消火器を用いたもので爆発の力が上下方向により強く働くものであるとしても、被告人に人身を害することについての少なくとも未必的な認識、認容はあったものと断ぜざるをえない。

東本願寺爆破事件についても、現に爆発当時Gが唐戸を順次閉めており、爆発の直前まで三名の参拜客がいたのであり、爆弾の構造、威力、大師堂が木造であること、物的被害の状況(以上すべて、原審取調べの関係各証拠により明らかである。)などに照らすと、これまた被告人の自白の内容やその信用性を吟味するまでもなく、被告人に人身を害することについての少なくとも未必的な認識、認容があったことは疑いをさしはさむ余地のないところといわなければならない。①の主張はすべて排斥を免れない。

さらに弁護人は、東本願寺爆破事件について、②被告人は、親鸞の思想、教えに共鳴、心酔しており、東本願寺の現状があまりにも親鸞の教えから逸脱した腐敗、頽廃の中にあることを憂慮し、これに警鐘を鳴らして教えに立ちかえらせたいというやむにやまれぬ気持から本件犯行に及んだものであり、かかる動機ならびに親鸞の教えが他害をきびしくいましめるものであることに徴すれば、被告人に同罰則にいう、治安を妨げる目的も、人の身体を害する目的もなかったことは明らかである、このことは、被告人がガソリン入りのポリタンク二個を接着しておくことにより内陣方面への被害を弱化しようと図ったこと、爆弾の威力が主に人のいない北北西、南南東に及ぶような方向に爆弾をおいたこと(被告人は、表中番のいた位置との間には柱があり、爆風等がこの柱に遮られて表中番に及ばないような位置に爆弾を設置したのであり、現に表中番は何らの負傷もしていない。)、大師堂の内部が広大な空間となっており、爆風が吹き抜ける構造であり、ガラス等も用いられておらず、そもそも爆風によるガラスの破片による人身への災害も考えられないことなどからしても明らかである、と主張する。

しかしながら、被告人が、東本願寺爆破事件を敢行したのは、仏教が神社神道とともに、天皇制支配を宗教的に基礎づけ精神的に支えてきたものであり、なかでも東本願寺はその中心的存在であって、明治政府の行った北海道開拓の際には、多額の資金を出し、道路を建設するなどしてアイヌへの侵略に加担し、国内被差別部落民の多数を信者として収奪を行い、戦争中は軍部と結託して朝鮮、中国等への侵略に加担してきたうえ、天皇制日本国家と癒着し、教団内部でも金脈問題等で紛争が絶えないなど堕落、腐敗しているとの認識に基づき、これを糾弾しようという考えによるものであったことは被告人の捜査段階の自白(右自白が十分信用できるものであることは後述のとおりである。)からして明らかであり、これに反し、所論に沿う被告人の原審公判廷における供述は己れの行動を正当化せんがための弁解にすぎないことは明白である(そもそも所論のような動機からして、大師堂に対し本件のような破壊を企図するなどということは心理的に不可能であるといわなければならない。)。また、被告人がガソリン等を入れたポリタンクを爆弾とともに並べて置いたのは、大師堂が木造建造物であったところから、爆弾による破壊のみならず、爆弾の爆発に伴うガソリンの燃焼によりその焼失を図ったがためなのであり、決して爆弾の爆発効果を減殺せんとの意図によるものではなかったことは明らかであるから、この点の所論も採用できない。たしかに所論指摘の柱の存在がその方面への爆発による破壊を減殺する効果があったこと、大師堂の内部が大きな空間となっており、閉塞された場所に比べれば、破壊力が小さいと思われること、大師堂にガラスが用いられておらず、ガラス片の飛散による被害が考えられないことは、いずれも所論指摘のとおりであるけれども、廻廊と内部とを画する障子が、南側を除きほぼ全面的に破れており、Gが閉めた北側の唐戸や右同⑱と⑲の間の忌戸等も、爆風によりあおり錠や落し錠の破損を伴って開け放たれたり、吹き飛ばされて横倒しになったりしていること、爆心地のほぼ北に位置する唐戸には幅約4.5センチメートル、長さ約七七センチメートルの貫通孔ができ、爆心地と右貫通孔を結ぶ線の延長線上にある北側廻廊の格子戸も破損し、右唐戸の西隣りに位置する板壁に消火器片が突き刺さっていることにかんがみれば、Gが受傷しなかったことはむしろ僥倖といわなければならないのであり、東本願寺爆破事件以前に、東急観光爆破事件、東大法文一号館爆破事件、三井アルミ社長宅爆破事件、神社本庁爆破事件と次々に犯行を重ねてきて、現にその多くの犯行において人身の傷害の結果を招来したにもかかわらず、被告人が原判示のように、その爆薬量などからみてその威力も決して、より小さいとはいえない爆弾を使用して本件犯行に及んだことに徴すれば、少なくとも被告人が人身の傷害という結果発生を未必的に認識、認容していたことは明らかであって、疑いをさしはさむ余地のないところといわなければならない。

弁護人は、また、「被告人が太子堂内に入った際にはなお三名の婦人が在室しており、これらは金障子が閉まる頃帰り始めてはいたが、仮にこれらの婦人が在堂したままであれば被告人は爆体にかぶさり自分の体を遮蔽物にして被害を与えないようにとさえ決意していたのである。」とも主張するが、原審公判廷における被告人の右主張に沿う供述は、被告人の捜査段階における供述に照らし、また、被告人が本件以前において原判示のように次々と兇悪な爆弾事件を敢行し、これによって多くの人々に傷害を負わせてきたこと自体からしても、弁解のための弁解にすぎないことは明らかであり、右主張も採用のかぎりではない。②の主張はすべて採用できない。

次に、弁護人は、③原判決は、被告人が「腹腹時計」や「薔薇の詩」を入手熟読していたことからも、被告人に治安を妨げ人身を害する目的があったことの一証左とするが、被告人は、三井アルミ社長宅爆破事件や東本願寺爆破事件においては、右の教本の指示に反して爆弾を開放された空間で用いており、また、三井アルミ社長宅爆破事件などでは火薬を詰める口に劣弱なものを用いていることなどからも明らかなように、被告人は右教本の指示に忠実にしたがっていない点も多々あるのであり、被告人がこれらの教本を熟読していたことから、直ちに被告人がこれらの爆弾の威力について十分な認識があったことの証左とした原判決の判断には論理の飛躍がある、被告人はこれらの犯行を単なるプロパガンダとして敢行しようとしていたものにすぎず、治安を妨害し、人身を害する目的など毛頭なかったものであると主張する。

しかしながら、原判決は、被告人がこれらの教本を熟読していたことのみをとりあげこれが、被告人に本件各爆弾の威力についての認識があったことの証左があったとしているわけではなく、被告人が爆弾闘争を決するにいたった心理的経過や当時発生したいわゆる連続企業爆破事件、北海道警察本部爆破事件、北海道庁爆破事件等多数の死傷者を出した爆弾事件について被告人がその内容、被害状況を十分に知悉していたこと、被告人が、爆弾事件を敢行したつど、その報道に注意を払い、当然被害状況についても各種の報道を通じて認識していたものとみることができるところ、最初の梨木神社爆破事件において相当な物的被害が生じたにもかかわらず、東急観光爆破事件においては、爆薬量をほぼ倍増した爆弾を製造して、市街地の雑居ビルで白昼使用し、更に、右事件で六名の負傷者を出したにもかかわらず、東大爆破事件では容器も大幅に大型化し、東急観光爆破事件の約二倍近い爆薬を用いた爆弾を製造したうえ、これを使用して負傷者を出し、それ以降も、同種の爆薬を用いた爆弾を製造したうえ、繰り返し使用していることなど本件をめぐる一連の経緯などとの関連において、被告人がこれらの教本を熟読していることを重視しているのであり、これらの事情を総合して被告人に「本件各爆弾が人を殺傷し、あるいは建物を破壊する等の強大な威力を有するものであることを十分認識していたものというべきである。」と述べているのであって、もとよりそこに何らの論理の飛躍はないのである。また、捜査当局の目を盗んでの爆弾の原材料の入手、収集にもろもろの制約があったであろうことや、被告人が爆発を企てた各現場の状況などからすれば、これらの教本の指示どおりの一〇〇パーセント理想的な形で被告人が爆弾闘争を敢行しえなかったことも、もとより当然であって、何ら異とするに足りない。また、前述のような各爆弾の構造、威力や爆発による甚大な被害状況に照らして、右各犯行が爆発物取締罰則所定の目的を欠く、単なるプロパガンダであるとの所論が到底採用しえないものであることもいうまでもない。③の主張も採用できない。

また、弁護人は、④被告人の捜査段階におけるこの点の自白が、被告人の思想の転換による動揺、反省の念に取調官がつけこみ誘導し被告人がこれに迎合したものであって信用性を欠くものであり、原審公判廷における被告人の供述こそ信用できるものであると主張する。

しかしながら、被告人の捜査段階におけるこの点に関する自白が、各犯行の動機、下見や爆弾製造のための準備状況、各犯行当日の行動、各犯行後の状況等について、己れの心情をまじえながら詳細具体的に供述したものであり、実際の体験にもとづく供述のみが持つヴィヴィッドな描写性、迫真性を備えていること、その内容も客観的証拠とよく符合した合理的なものであること、被告人の有利な点や記憶のあいまいな点もそのまま録収されており、また、あらかじめ取調官において予備知識があったとは到底認められず、被告人の自発的な自白にまたなければ録取されえなかったであろう事項も少なからず録取されていて、取調官の誘導や押しつけがなされた形跡もその内容からして全く窺われないこと、被告人が、寿荘誤爆事件を起こして逃走中、ライヒの思想やラジニーシズムの影響を強く受け、自らの敢行してきた人身被害や建物破壊をもたらすような闘争が誤りであったと自覚、反省し、反日思想から離脱してゆき、自らの闘争過程やその後の思想変遷をかつての友人たちに伝えたいとの願いなどから、全面的に自白するに至ったという自白にいたるまでの被告人の心情などにかんがみ、十分に信用できるものであること、これに反し、被告人の捜査段階の供述と符合しない、原審公判廷におけるこれらの点についての供述は、それ自体不自然不合理であり、かつ、捜査段階の供述とのくいちがいについて納得のできる説明がいささかもなされていないことからして到底信用しえないものであることは、いずれも原判決が説示しているとおりといわなければならない。④の主張も採用できない。

なお、弁護人は、これらの事件に使用された各爆弾が爆発物取締罰則一条の「爆発物」にあたることについても、これを争う原審の主張を維持しているものと思料されるのであるが、本件各犯行に使用された爆弾が、その構造や威力からして同罰則の「爆発物」にあたることは、原判決がるる説示しているとおりといわなければならず、この点の主張も排斥を免れない。

以上要するに、弁護人のその余の主張について按ずるまでもなく、原判決には所論のような事実の誤認はないといわなければならず、所論はすべて排斥を免れない。論旨は理由がない。

事実誤認ないし法令適用の誤りをいう控訴趣意(二)について

所論は、原判示第四の一及び二の各事実(以下、「寿荘誤爆事件」という。)について、被告人が製造し所持していたところの時限式手製爆弾は爆発物取締罰則にいう爆発物にはあたらないのであり、これを同罰則の爆発物にあたるとした原判決には、事実の誤認ないし法令の適用の誤りがあるというのである。

弁護人は、同罰則のいう爆発物とは、同罰則がきわめて重い法定刑を定めていることや同罰則一条及び三条が「治安ヲ妨ケ又ハ人ノ身体財産ヲ害セントスルノ目的」による爆発物の使用、製造、所持を処罰するものであって、治安妨害等をその内容とする目的犯とされていることなどに徴し、「広範囲かつ無差別に人の生命、財産に危害を及ぼす程度の威力を有するもの」に限られると解すべきところ、本件爆弾は爆薬量も少なく、その容器も脆弱であり、誤爆時の被害状況も軽微であったことなどにかんがみれば、右の「広範囲かつ無差別に人の生命、財産に危害を及ぼす程度の威力」は有しなかったことは明らかであって、同罰則のいう爆発物にはあたらないと主張する。

しかしながら、同罰則のいう爆発物とは、判例上「その爆発作用そのものによって、公共の安全を乱し、または、人の身体財産を害するに足る破壊力を有するもの」(最大判昭和三一年六月二七日・刑集一〇巻六号九二一頁。)とされており、右定義はすでに判例上確立したものとなっていると解されるところ、当裁判所も右定義を正当なものと考えるものである。所論の爆発物の定義はいたずらにこれをきわめて限定的に解釈せんとする独自の見解を展開するものであって、爆弾のもつ危険性、瞬時にしてその強力な威力によって生命財産を破壊し、かつ、社会の安寧秩序をもゆるがすその威力、有害性に照らすとき、所論の如き見解は、同罰則の立法趣旨を著しく没却するものといわなければならない。そして、本件爆弾の構造、爆弾容器の裂断及び飛散状況、被告人の自傷、付近住民の反応など本件誤爆時の状況ならびに鑑定人福田廣作成の鑑定書により認められるところの実験結果(その各具体的内容は、原判決が詳細適切に説示しているとおりである。)を総合すれば、本件爆弾は、少なくとも一メートル以内の近距離では、容器の破片の飛散等によって、人の身体に重大な損傷を与える程度の威力を有するものであることは明らかであるといわなければならず、これが同罰則のいう爆発物にあたることについては疑いをさしはさむ余地の全くないところといわなければならない。なお、本件誤爆の際、こたつ板の上に置いてあった物品や同室の窓ガラス、天井等も全く破損していないことや本件爆弾の直近にいた被告人の受傷も比較的軽微であり、こたつをはさんで向い側にいたA女は何らの傷害も受けていないことが、本件爆弾の威力のきわめて小さかったことの証左であるとの弁護人の主張についていえば、本件爆弾はその容器であるスプレー缶の特性や爆弾の置かれた状況によってその爆発の威力の及ぶ方向がかなり限定、集約されるものであること、すなわち、本件爆弾の場合、その威力は、主として横向きに置かれてあった管体の下方(こたつ板の方向)及び西ないし西北方に強く及んだものと推認されること(被告人についていえば、たまたま本件爆弾の北側に座っていて、本件爆弾の威力が強く及ぶ方向から少しずれていたために、体の右側の一部に前記程度の傷害を受けたに止まったのであるが、もし、右威力が被告人の方向に最も強く及び、被告人が破裂した管体や高熱化した多量の爆薬を体に浴びていた場合には、かなりの重傷を負ったであろうと推認される。)が、本件誤爆時の管体や爆薬の飛散状況、これによる家財等の破損状況によって認められ、かつ、福田廣の実験結果によっても十分に裏付けられているところであるから、右の事情の如きは何ら本件爆弾が少なくとも一メートル以内の近距離では容器の破片の飛散等によって、人の身体に重大な損傷を与える程度の威力を有するものであるとの前記認定と何ら矛盾、牴触するものではなく右主張も採用できないというべきである。

ところで、弁護人は、原判決が、福田廣の実験にかかる爆弾A及びBと本件爆弾とが右実験結果と本件誤爆時の管体、爆発の飛散状況や家具等の破損状況とを対比検討したうえ、「本件爆弾は、右爆弾A・Bとほぼ同程度の威力を有していたものと認めるのが相当である。」と断定している点について、① 右実験にかかる爆弾Bにおいては、缶頭部、胴体部、缶底部の各継ぎ目から裂断したのみならず、さらに胴体部も五片に分裂しているのに対し、本件爆弾は右各継ぎ目から裂断しているのみであること、② B爆弾の爆発においては、さらに爆体に接着したバッグ等の包装が細片化されているのに、本件爆弾の爆発においては、バッグ等の包装の細片化は生じていないこと、③ 本件爆弾のこたつ板への影響もA爆弾、B爆弾よりかなり小さなものであること、④ A爆弾の爆発においては、布団が燃焼しているのに、本件爆弾の爆発においては布団は全く燃焼していないこと、⑤ 被告人の負った火傷や袖口の焼損は火炎効果によるのではなく火薬の飛散によるものにすぎないからこそ軽微なものにとどまったのであり、A爆弾の爆発にみられたような強力な火炎効果は全く見られなかったこと、⑥ 本件爆弾の爆発においては、缶体側面は1.5メートル離れた地点に落下しているにすぎず、これにより何らの損傷も与えていないのに、A爆弾においては、缶体側面がベニヤ板を破損していることなどを指摘し、原判決はこうした点を看過し、あるいはことさらに無視して、爆薬の量がほぼ等しいということだけから本件爆弾の威力とA・B爆弾の威力とを安易に同程度のものであると臆測しているのであり、これらの諸事情に照らせば、本件爆弾はわずか一〇センチメートルの至近距離である物を損壊する程度の威力しかないことは明らかであり、同罰則のいう爆発物とは到底いえないものであると主張する。

しかしながら、胴体部分が五片に分断されたのは爆弾Aの実験においてであり、爆弾Bの実験においてではない。①の所論はその前提において誤っているといわなければならない。また、④⑤⑥の主張についていえば、本件爆弾の誤爆においては、梱包されたバッグ等の破壊や糞尿入りの容器の破損、飛散等に爆発力のかなりの部分が消費されているのに対し、爆弾Aの実験においては、かかる事情はないことにかんがみれば、本件爆弾の爆発時の状況と爆弾Aの実験における状況とにこの程度の差異が生じたことをもって、本件爆弾と爆弾Aとの間に威力の差異があることの証左とすることはできないことは、原判決の指摘するとおりといわなければならない。次に、②の主張についていえば、たしかに爆弾Bの爆発実験においてはバッグ等の包装が細片化しているのに対し、本件誤爆においては、このような現象がみられていないことは所論指摘のとおりというべきであるが、他方において、爆弾Bの爆発においては、缶頭部と胴体部分とは完全に裂断していないのに、本件誤爆においては、缶頭部と胴体部分とは完全に裂断していること、ポリ容器も、爆弾Bにおいては胴体部分が圧迫されて底部が破裂しその一部が欠損したにとどまるのに対し、本件誤爆においては火力で溶けて破損した状況になっていることなど、むしろ本件爆弾の方が爆弾Bより破壊力が大であったのではないかと思われる事情も存するのであるから、所論指摘の事情のみをもって本件爆弾の威力が爆弾Bより著しく劣っていたと速断することはできない。③の主張についていえば、本件誤爆の際のこたつ板の損傷状況と、爆弾Aの爆発実験の際のこたつ板の損傷状況を対比するとき、いずれも板部分が台形状にえぐりとられて穴があいているところ、その穴の幅が爆弾Aの爆発の場合の方がやや大であるものの(これは前述のように本件誤爆の際には爆発力の一部がポリ容器等の破損等消費されたことによると思料されるのであり、直ちに本件爆弾の威力そのものが爆弾Aに劣っていたことを意味するものではないことはいうまでもない。)、ほとんど同程度の損傷となっているのであり(爆弾Bの実験についていえば、こたつ板よりはるかに薄いベニヤ板が使用されているのであるから、その損傷状況から右爆弾と本件爆弾との威力を比較検討することはできない。)、所論のようにこの点からして本件爆弾の威力が爆弾A・Bに著しく劣っているとは到底いえないというべきである。なお、本件爆弾のような手製爆弾にあっては、同じ容器、同量の爆薬を用いても、その詰め方、密封状況、起爆装置の状況などによってその威力は微妙に異なったものとなるであろうことは容易に推認されるし、また、同じ威力の爆弾を用いても、爆発時の偶発的状況によりその破壊状況も微妙に異なったものとなるであろうことも容易に推認されるところというべきである。したがって、爆弾A・Bが本件爆弾と寸分ちがわない威力を有していたとまではもとより断じえないけれども、本件誤爆時の状況と爆弾A・Bの実験結果の比較対照からして、両者が近似的には同程度の威力があったとする原判決の判断は正当といわなければならない。いわんや本件爆弾がわずか一〇センチメートルの至近距離にある物を損壊する程度の威力しかなかったとする所論は、被告人の受傷の一事をもってしても到底採るをえないものであるといわなければならない。右主張は採用できない。

また、弁護人は、① 本件爆弾よりも威力の大きいB爆弾の爆発においても、缶頭部は何らベニヤ板に損傷を与えていないのであるから、本件誤爆により被告人方居室北東側壁面のF点(原判決添付図面(ハ))の長さ七センチメートル、深さ約0.5センチメートルの凹損は本件爆弾の缶頭部の破片効果によって生じたものではないことは明らかであり(缶頭部の大きさからいっても、本件爆弾の缶頭部によって長さ七センチメートルもの凹損が形成される筈がない。)、右居室がもと物置として使用されていた老朽化した建物であることを併せ考えると、右F点の凹損は壁面のひび割れにすぎないとみるべく、原判決は、この点でも事実を誤認している、② 原判決は、本件爆弾の爆発によって、缶底部がE点(原判決添付図面(ハ))にあたり、同点に長さ約四センチメートルの傷跡を生じさせてC点まで飛んだと認定しているが、E点の長さ四センチメートルの傷跡は缶底部の大きさに符合しないこと、本件爆発後多数の人間が右居室にきたことからすれば、誰かが畳の上にあった缶底部をC点まで蹴りこんだことも十分に考えられることなどに徴し、右認定は事実を誤認したものである、などとも主張する。

しかしながら、右のF点の凹損は、金属性ようのものが突きあたってめりこんだような形状をしているのであり、この凹損の形状と本件爆弾の缶頭部の落ちていた地点とを併せ考えるとき、右凹損が老朽化による単なる壁面にひび割れなどではなく、本件爆弾の缶頭部の衝突によるものであることは明らかであるといわなければならない。爆弾Bの実験においては、缶頭部はベニヤ板に何らの損傷も与えていないことは、所論指摘のとおりであるけれども、右実験においては缶頭部は胴体部分と完全に分断しておらず、本件爆弾の容器の破壊状況とは全くその状況を異にしているのであるから、そのため缶頭部側のベニヤ板に缶頭部による損傷がないとしても何ら異とするには足りないというべきである。また、本件誤爆時における缶頭部の飛散が壁面に直角の角度ではなく、ある程度の角度をもったものであったと推認されること(F点の位置からして明らかである。)からすれば、缶頭部の壁面との衝突はやや壁面を擦過するような形で起ったものと推認されるのであるから、F点の凹損の長さが缶頭部の大きさを上廻っていることも、何ら異とするに足りないところといわなければならない。①の主張は採用できない。

次に、②の主張についていえば、E点の傷跡が金属性ようのものが突き刺さったような形状であることに加えて、その北側の柱や土間の西側壁にも爆薬の一部が飛散していることに徴し、E点の傷跡が缶底部の飛散、衝突によって生じたものであることは、疑いをさしはさむ余地のないところといわなければならない。E点の傷跡の長さと缶底部の大きさとの関係についての所論については、①において説示したところがそのままあてはまるというべきであるし、爆発後多数の人が右居室にきてそのうちの誰かが落ちていた缶底部を蹴るなど現場の状況をかえたものであるとの所論も、本件のような重大事犯においては、犯人の手がかりとなる有力な証拠が多数存在するであろう爆発現場について、その現状の保全にきわめて細心の配慮がなされるのが捜査の常道であり、現に、原審証人目黒重夫、同廣瀬喜征の各原審証言などにより現場の保存にはきわめて細心の配慮がなされていたことが認められるのであって、所論はいたずらに臆測を逞うするものという他はない。②の主張も採用できない。

原判決に所論のような事実誤認ないし法令適用の誤りは存しない。所論は採用できず、論旨は理由がない。

事実誤認ないし法令適用の誤りをいう控訴趣意(三)について

所論は、寿荘誤爆事件について、被告人は明治神宮という聖域に糞尿を飛散させ、これを汚すこと自体によりいわば象徴的に明治天皇の権威等を冒涜、失墜させることを企図したものにすぎず、人の身体、財産を害することまでは企図していなかった(被告人が、従来の各犯行に使用した各爆弾よりはるかに威力の小さい爆弾を製造したうえ、これを糞尿入りのポリ容器と抱き合わせて梱包し、手提かばん等に入れたうえ、ある程度人から離れた所に設置して爆発させようとしたことがその証左である。)のであるから、被告人は、「治安ヲ妨ケ又ハ人ノ身体財産ヲ害セントスル目的」はなかったというべく、この点においても原判決には事実誤認ないしは法令適用の誤りが存するというのである。

しかしながら、本件爆弾闘争を決意するに至った経緯・目的が原判示のとおりであること、設置予定場所及び日時が多数の初詣客で賑わう元旦の明治神宮拜殿近くであること、製造、所持した本件爆弾の威力が前記認定のとおりそれなりにかなり強力なものであり、かつ、被告人はもとよりA女についても、それまでの一連の爆弾闘争やこれに関する報道等により、右爆弾の威力についておおよその認識を有していたものと認められることなどの諸事情に加えて、その任意性、信用性に疑いをさしはさむ余地の全くないところの被告人及びA女の捜査段階における各供述の内容(これに反する被告人の原審公判廷における供述が信用するに足りないものであることは、原判決が説示するとおりであるというべきである。)を併せ考えるとき、被告人らにおいて本件爆弾を製造、所持している時点において、将来所論のような象徴的意味でのみこれを明治神宮において使用しようとしていたにとどまらず、初詣客の身体財産を害し、かつ社会の安寧秩序を阻害することをも認識、認容していたものと認めざるをえない(本件爆弾を布製手提かばんに入れるなど厳重に梱包して設置したことが、被告人に身体加害等の目的がなかったことの証左であるとの所論についていえば、本件爆弾を明治神宮境内に設置しようと予定していた時刻やその時刻に予想されるところの初詣客の雑踏状況にかんがみれば、右のような措置を講じたことが、被告人に身体加害等の目的がなかったことの一証左とは到底いえないことは原判決の指摘するとおりといわなければならず、右所論も採用できない。)。

なお、弁護人は、被告人が本件爆弾の威力を強烈なものであると考えていたとするならば、寿荘で誤爆させるような軽率なことはしなかった筈であるとか、明治神宮の便所に一たん本件爆弾をセットしたものの、これを断念したのは、本件爆弾の爆発の威力がさして大きくないため、爆発物に伴う群集の混乱も大したことにはならず、したがって、即時自分達が犯人として追跡されるであろうと考えたためであるとか主張し、被告人が本件爆弾の威力をきわめて小さいものと認識していた旨強調するのであるが、被告人が寿荘においてこれを爆発させる意図の下にあえて爆発させたというのであるならば、あるいは被告人が本件爆弾の威力をきわめて低いものと考えていたことの証左となりえようが、寿荘における本件爆弾は被告人の意に反した誤爆なのであり、かかる誤爆を被告人が不注意により惹起したからといって、このことが本件爆弾の威力についての被告人の認識に何らの消長をきたすものではないことはいうまでもない。また、被告人が明治神宮において一たん本件爆弾をセットしながら断念したのは、参拝客が多く、爆弾設置後雑踏のため身体の衰弱しているA女と二人では逃走が困難であると判断したために他ならないことは、被告人の捜査段階における自白によって明らかであり、決して所論のような動機によるものではなかったのであり、右主張はすべて牽強付会のそしりを免れず、採用のかぎりではない。

弁護人のその余の主張につき按ずるまでもなく、原判決に所論のような事実の誤認も法令適用の誤りも存しないことは明らかであり、所論は採用できない。論旨は理由がない。

量刑不当の控訴趣意について

所論は、被告人に対する原判決の量刑が不当に重い、というのである。

そこで、原裁判所が取り調べた証拠を調査し、当審における事実の取調べの結果を参しゃくして検討すると、被告人は、原判示のような経緯から、いわゆる反日思想を抱くようになり、自己の思想に反するものの糾弾、変革を目指してペンキゲリラその他の批判行動を行ったものの、社会から全く無視、黙殺されたところから、このことによる屈辱感も加わって、この上は、より強力な闘争手段をとる他はないと決意するにいたり、まず手はじめに、深夜人の就寝している社務所と接続している平安神宮の社殿に多量のガソリンを散布して放火炎上させ、さらに梨木神社本殿、大阪市内の繁華街の雑居ビルにある東急観光株式会社大阪海外旅行センター・同社関西仕入センター事務室前フロア、東京大学法文一号館三階、三井アルミニウム工業株式会社社長H宅、宗教法人神社本庁本館、東本願寺大師堂と、手あたり次第に次々と強力な時限爆弾を仕掛けて爆発させ、これらの建造物の復興、修復に要した費用のみでも総額約一〇億円にものぼる財産上の損害を蒙らせ、かつ、全く無関係な一般市民を含む合計一二名の者に加療約三日ないし二週間の傷害を負わせ、あるいは初詣客で賑わう明治神宮境内で爆発させるべく住宅密集地にあるアパート(寿荘)で密かに爆弾を製造し所持しているうちにこれを誤爆するにいたらしめた等の犯行に及んだものであって、本件は一個人によって敢行された連続爆弾事件としては、稀にみる大規模かつ多数回の犯行であるといわなければならない。また、その動機たるや、己れの思想、信条を絶対化したうえで、その貫徹を最も危険な無差別爆弾テロという形で図ったという、きわめて独善的、短絡的、微視的、自己中心的なものであり、社会の安寧秩序への最も悪質大胆な挑戦と評する他はない。

弁護人は、被告人の抱いていたいわゆる反日思想は日本の歴史や現状からすれば社会的にも正当なものとして是認されてしかるべきであり、私利私欲のためではなく、こうした思想からやむにやまれず本件各犯行に走った被告人の純粋さは、それはそれなりに斟酌すべきものであるのに、原判決は、かかる点について一顧だにもせず、「自己の主義、主張を正当化し、その貫徹のためには、他人を犠牲にしてはばからないというやり方は、余りにも卑劣かつ独善的、自己中心的な所業であって、その動機、目的には何らの酌量の余地も見出すことができない。」ときめつけているのは到底容認できないところであるとして、本件の動機となった被告人の心情につきその正当性をるる主張する。もとより、いかなる思想、信条を抱壊しようとも、それは個人の自由であって、裁判所としても、本件各犯行の動機縁由となった被告人の思想そのものを内容的に評価あるいは批判すべき立場にはないことはいうまでもない。しかしながら思想、信条の自由とは、他面自己の思想、信条と異なる他人の思想、信条をも容認することによって、はじめて民主主義的社会秩序を支える精神的支柱として健全に機能しうるのであり、自己の思想、信条のみを絶対視し、これと両立しない他者の思想、信条を問答無用的に暴力によって抑圧、排除するなどということは、社会的に到底是認されないところというべきである。とくに本件においては、被告人は己れの思想を前述のような最も兇悪にして危険きわまりない爆弾闘争という形で貫徹しようとしたのであって、そこには一面被告人のある種のきまじめさが働いていることは否定できないにせよ、反面、被告人が右のような思想の抱壊から本件各犯行へと進んでいった心理的なプロセスには、自己の無力感、挫折感に対する心理的補償という一面が濃厚に看取されるのみならず、そこには倒錯したヒロイズム、ナルチシズムさえ窺えるのであって、被告人の心情が独善的で視野狭窄的なものであったことは原判決の指摘するとおりといわなければならない。弁護人は被告人の心情を「純粋」と表現しているが、日本語としては甚だ不適切であって、あえていうならば「狷介」というべきであろう。以上の点から所論はいたらずに被告人の心情を美化するものにすぎず、到底採用できない。

しかも、被告人は、これらの各犯行に先立って、爆弾の製造技術等を習得し、密かにその原材料を集めたうえ、長時間をかけて爆弾を次々と製造し、また、あらかじめ現場を入念に下見して、放火地点や爆弾の設置場所、逃走経路等を事前に綿密に検討するなどきわめて強固な犯意と周到な準備のもとに本件各犯行を敢行しているのであって(本件各犯行の行われた約二年間の被告人の全生活は、もっぱら本件各犯行の実行のみを目的としたものであるといっても過言ではない。)、計画性、執着性のきわめて強い犯行といわざるをえず、また、被告人が、捜査をかく乱するため多数のグループが相呼応して行なった犯行に見せかけるべく、爆弾の構造や犯行後に出す声明文等に手の込んだ偽装工作を施すなどの措置をも講じていることや、寿荘における誤爆による指名手配がなかりせば、おそらく被告人はその後も同様の犯行を延々と敢行し続けたであろうと推認されることなどを併せ考えるとき、被告人の心情はまことに兇悪かつ卑劣なものと評するの他はない。

また、本件の物的損害も、経済的にも前述のように莫大なものであるのみならず、本件犯行の対象となった前述の神社、仏閣が、いずれも文化的遺産としてもすぐれたものであり、かつ、多くの人々のそれぞれ信仰の対象ともなっていたものであることにかんがみるとき、本件の損害には金銭的な評価のみでは、評価しつくしえない関係者の蒙った精神的衝撃にもはかり知れないものがあるというべく、その結果はまことに重大であるという他はない。

加うるに本件においては、全く無関係な一般市民を含む一二名の者に前判示のような傷害を負わせその一部の者にはその後数年間にわたり肉体的、精神的苦痛を与えているのであって、この人身の損傷による損害にも軽視しえないものがあるといわなければならない(なお、本件各犯行に使用された各爆弾の前述のような性能、威力にかんがみるとき、成行きによっては、本件によってもっと重大な人身の損傷が惹起されたことも十分に考えられるところであって、人身の損傷がこの程度にとどまったことはむしろ僥倖というべきである。)。

次に、明治神宮境内における爆弾の使用という被告人の企図についていえば、右犯行は参詣客が多く、爆弾設置後雑踏のため身体の衰弱しているA女と二人では現場からの逃走が困難であるとの判断から一たん断念されたものの寿荘における誤爆がなかりせば、間違いなく、被告人の手で敢行されていた筈のものであるが、右犯行は、体調をくずし、精神的に無気力状態に陥っていたA女の気持をふるいたたせることにより、その心身を回復させようとする甚だ自己中心的で身勝手な動機から決意されるにいたったものであって、その動機自体まことに不埓なものといわざるをえないところ、仮に被告人が企図していたとおりに、初詣客で賑わう明治神宮境内において右爆弾が使用されていたとするならば、右爆弾の爆発作用そのものによる人身の損傷に加えて、その爆弾による初詣客の混乱、恐慌によってきわめて多数の死傷者が生じたであろうとも推認されるのであって、その予想される結果は思うだに戦慄を禁じえないものがあるといわなければならない。

このような理不尽な犯行により物心両面にわたり深い痛手を受けながら、十分な慰謝の措置を講じられていない関係各被害者らが、被告人に対して厳罰を求めているのは至極当然というべきである。なお本件各犯行は、いわゆる連続企業爆破事件その他多数の死傷者を出した爆弾事件が続発し、爆弾テロによる社会不安が醸成されていた時期に、これと呼応するかのように、京都、大阪、東京の各地で連続的かつ無差別的に敢行されたものであって、当時の一般市民に与えた衝撃や恐怖感、不安感にも看過しえないものがある。一般に、この種爆弾事犯は小人数により大規模な破壊が可能であるうえ、爆弾によって犯人割出しの手がかりとなるべき証拠も散逸してしまうことが少なくなく、犯人検挙もきわめて困難であるところなどから模倣性も強く、一般予防の見地からしても、厳重な処罰が要請されている。以上の諸点を併せ考えるとき、被告人の犯情はまことに悪質であって、その刑事責任はきびしく追及されなくてはならないというべきである。

したがって、本件各爆破事件により現実に生じた人身の被害は、被告人が犯行に際しそれなりに配慮を払ったこともあり、幸いにして使用された爆弾の性能、威力と対比するとき比較的軽微であったこと、被告人がその後原判示のような思想に触れて、それなりに一応の内省力らしきものを身につけるにいたり本件各犯行についての反省改悟の念から捜査段階においてそのほぼ全容を自白し、原審公判廷においても一部弁解のための弁解をしているものの、右自白の大部分を維持し、被害者らに一応謝罪の意を表していること、傷害を負った被害者の一部の者との間で示談が成立し、右被害者からは宥怒の意思が表明されていること、右のような被告人の現在の心境(いわゆる転向の心情と論理について当裁判所もこれを理解評価するに吝かではない。)などからして、将来被告人が本件のような犯行を再びおかすおそれはもはやないと認められること、身から出た錆とはいえ、被告人が長期間にわたる逃亡生活、潜伏生活を余儀なくされ、その間辛酸をなめてきたことは被告人にとって一つの社会的制裁ともみうる一面を有すること、多数の知人等から減刑の嘆願がなされていることとか、被告人の年令、家庭の事情など所論指摘の点を含めて被告人のため酌むべき事情一切(なお、平安神宮放火事件、梨木神社、東急観光、東大法文一号館、三井アルミ社長宅各爆破事件について、自首が成立しないことは、原判決の説示するとおりといわなければならない。)を十分に考慮しても、前記のような犯情にかんがみるとき、被告人を懲役一八年に処した原判決の量刑はやむをえないところと思料されるのであって、これが重過ぎて不当であるとは到底いえない。論旨は理由がない。

よって、刑訴三九六条により本件控訴を棄却し、当審における未決勾留日数の算入につき刑法二一条を、当審における訴訟費用を負担させないことにつき刑訴法一八一条一項但書を各適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官石丸俊彦 裁判官小林隆夫 裁判官日比幹夫)

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